自分専用 備忘録

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妹がいて 良かったこと 無かった・・・・・

      2023/07/12

正直、自分として「妹がいて、良かった」と思ったことなど、無い!

妹なんて、大人になれば、ストレス爆増の、うるさい小姑が増えたようなもの!

あっ! 唯一、あった。

私にできず、妹がいたから 可能になったこと、

祖母に ひ孫、父に孫を 見せられたことだけ。

母から見放されて、マイペース人生に邁進してた 2番目の妹は、

日銀に就職して、お金も暇もあり、私みたいに喘息など、病弱ではなかったから、

私が 店を手伝い、親父の介護をしてる間、

北海道旅行に海外旅行と、遊び回っていた。

私は 国家公務員だったものの、ワーキングプアな 奴隷のような人生だった。

同じ家族で、何でこんな思いをしなければならないのか?

 

2005 年 あたりだったか?  親父がまだ、東十条店にいた時、

帰省してきた妹が、

「(私が)靴を脱ぐ場所が邪魔だ!」

と 敵対心むき出しに 攻撃したことがある。

店と奥の部屋を隔てるドアは、店側が鏡になっていて、

鏡の邪魔にならない位置には、ちょっとした、ピポット とかピンセットなど、小物もかかっていて、

さらには 店の通路の上に、階段があった.

なので私は 頭をぶつけないよう、かがんで通って、

ドアに近い、しかし、姿勢を斜めでなく、まっすぐ立てる場所で 靴の着脱をしていた。

私が 頭をぶつけないように、身をかがめて通るところ、

身長が 15 cmほど、私より低い妹は、頭をぶつける心配など、ない。

そもそも、名古屋に嫁いでからだったから たまに帰省するだけ。

当然、店にも、たまにしか 来なかった。

(これが最後だった?)

基本 人間なんて 自分目線の生き物だ。

当然、 私が、自分が頭をぶつけないですむ、安全な場所で、

なるべく 邪魔にならないように 靴の着脱していることなど、理解できるわけがないし、

そもそも 意識すら、していない。

なので 私が頭をぶつけないように・・・ と注意を払っていることなど、意に介さず、

「だらしない! なんで、こんなところに、靴、脱ぐの?! マナーがなってない!」

と、私に強く説教した。

(本人は、この件も、ギャン泣き事件同様、忘れているだろうが)

なにせ、一方的に 兄の私を叱り付けて、こちらの言い分など、まったく聞かない。

そこに、親父が 妹の肩を持つ。

「あきこは、やっちゃんのために 言ってるんだよ」

えっ?

この事件で、私は悟った。

「男親って バカな生き物なんだ!

息子と娘の意見が違ったら、息子を押さえつけてでも、問答無用で、娘の味方をするものなんだ。」

毎日、介護してる私は、いわば 空気みたいなもの。

感謝なんて気持ちは、薄れてしまう。

(だからこそ、私は毎朝、仏壇に手をあわせるとき、神社参拝するときは、まず 感謝とお礼から

ということを 習慣化した)

それに、息子といっても40代にもなれば、妹のほうが、かわいいものなのだ。

しかも、唯一、田中家では、孫の顔を見せられた妹だ。

たまに帰省して、孫を連れてくる 妹が 100% 絶対で、

日常、1人で介護している私は、空気みたい、存在感がない。

私は「そんなにアキコと孫がいいなら、名古屋に行って、帰って来なくていい!」

と言いたかったが、現実問題、何の解決策にもならないし、

自分1人の我慢で解決するなら、

と それ以上は、ダンマリを決めこんで、とっとと店を離れた。

 

 

※ この事件以来、名古屋の妹は、 葬式のときに来た以外、義理の親との

年賀状だけで、本人との連絡は しなくなった。

いや、妹は 私が スマホとか ネットを使うのを 不愉快に思ってたからか?

その後、ネット契約を解除してしまい、メール連絡できなくなった。

電話だと、子供が 赤ん坊のころは、あまり遅い時間にかけられず、

夕食の支度から 子供を寝かしつけるまで 当然、こちらは遠慮する。

当初、連絡の際は 妹から私に 電話が来ていたが  自然消滅。

 

結局、2004年 私が運転して 父母を 妹の家 (夫の 名古屋の実家)に連れて行ったが、

それが 両親そろっての 一生に一度の 名古屋訪問となってしまった。

私も、

かなり後になって(約 11 年後)

「そうだ、親父は脳梗塞のわりに、頭がしっかりしていると思ったが、

たまに、ヘンな時があるな。

先日も、急に 今の若いモンは SEX するばかりで 子作りしない・・

なんて、言い出したな。私しかいなかったから 良かったものの・・・・」

と あのときの 親父の対応が わかった。

しかし、当時は 店の きりもりから 介護も孤軍奮闘、

心身ともに、余裕など 無かった。

その後、妹に会うためだけに、名古屋まで行く気には、なれない。

 

※ もしや、昔の鬱屈した私みたいな奴が、野崎さやか(女忍者さや)さんを、執拗に攻撃してるのかも。

あの頃の私は、父の介護を 店とともに、私に丸投げして、北海道だ、ニュージーランドだ、

と 好きに旅行に行く 妹が  羨ましくて仕方なかった。

同じ親で 同じ家族として同居していて、

あまりの人生の自由度、幸福感の違いに

「ふざけるな!」という怒りの感情があったのは、事実である。

 


2023/7/12    気づき

ふと 私自身、大学受験までで 学ぶことをやめることなく、

ひたすら 学び続け、異業種交流のみならず、さまざまな業界知識を 身につけ

人生 日々 進歩で生きてきたことに 気づいた。

人間、いくつになっても 知らないことばかり・・・・

人口減少している日本だって、60年近く生きてきて いまだ、

「初めて見る、聞く苗字」があったりする。

現在進行形で 新しい知識、スキル、情報を 身に付け続けている。

社会科教員免許を取る前より、年数だけでなく、知識、判断力の幅も 伸張し続けている。

 

金融業界、不動産業界、政界、法律・・・・

 

子供の教育で 教えることを、真っ先に自分が見につけている感じだ。

 

長くなったが、私の この進化し続ける自分の原点が何だったのか?

気づいてみたら、母や妹たちとの軋轢が多々あった人生、

子供のころから「兄なんだから~」「男のくせに~」

と、何かと比較され、妹と対立すると、常に 母は 妹の肩を持っていた。

だから 「妹3人、誰にも負けるわけには いかない」

という 意地というか? 競争心が、ずっと続いてきた。

 

ピアノ、そろばん、水泳・・・

習字以外は(字が下手) ことごとく 妹たちには 負けなかった。

大人になることは 「できることが 増えること」であり

大人になると、クルマやバイクの運転も できるようになることだと 思っていた。

 

実際、興味を持ち、運転好きになって、

クルマも 大型2種、バイクも、大型二輪まで 免許取得した。

 

教員免許と、大型2種、大型自動二輪免許を、全部 持っていて、

今もすぐに 実際に使える、という人間は、珍しいと思う。

 

59歳になる 1ヶ月前に、妹らが存在したことが、私の とどまらない向上心につながっていたのか?

と 気づいた。

すべてに ありがとう。

 

 

 - 海外移住, 自伝