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独身者が 日本の介護施設に入所するのは 死ぬより地獄!!

      2023/06/07

独身者が 日本の介護施設に入所するのは 死ぬより地獄!!

介護の前に 医療でも ずいぶんいろいろ、ありました。

当然、制度やら 法律、政治との絡みも 影響しているので

政治の関心も 人一倍 強いです。

平成維新の会として「官僚利権、既得権を打破、日本を刷新しよう!」

と 大前研一が立ち上がったとき、実は応援してました。

その後、橋下 徹が 代表になったあたりから、

学生の学費援助を削減、打ち切りなど

政治の役割と逆行する政策を バンバン始めたので

すっかり 維新嫌いになりましたが。

政治のことはともかく、自分に直接、降りかかったのが 介護でした。

介護で 嫌な思いと、けっこうな負担から

もはや、親父が死ぬか?

自分が詰むか?

と追い詰められ、

打開策として 実行したのが

フィリピン介護移住でした。

 

結局、2011年の 東日本大震災を機に

すでに 完成していた物件があったので 約 400 万円で 購入

介護ベッドや、風呂場で使う、耐水性の車椅子など

各種用品を BangBang 地区(マニラの介護用品店街)で買い揃え

2012年に いよいよ親父本人を連れて行こう

となってまもなく、

腎臓悪化で 脳血管がまた詰まって、

とうとう会話不能となり、最終的に心臓の血管が詰まって停止。

2012/2/23  私が呼びかける中、他界しました。

 

介護する側の人間として、振り返ると

日本での介護は、本人も 介護する家族も つらかった・・・・

施設で具合が悪くなると、病院に移され、入院

そして 病院も 基本、1~3ヶ月以内には 退院させることになっているので

(病院とて 営利企業であり、点数制なので 長期入院という 点数が上げられなくなるシステムでは

機械的に、そういう扱いになってしまう)

入院して落ち着く まもなく、

介護不要とか、軽減される、など、自宅に戻れる希望がない場合は、

次の病院なり、老健なり、次の移動先を考えずには いられませんでした。

もともと 身障者は 心身とも、隔離感のある日本社会で、

介護は家族がするのが当たり前、という風潮で

他人のことなど 無関心ですから、

殺伐として ほんと、嫌な思いのほうが 多かったです。

 

宮城の松島に、親父が行きたがってたので、

連れて行ったとき、車椅子を優先で載せてくれたり、

観光地、旅行が 幸福感を感じられる、数少ない時間でした。

ドライブ、バイクツーリングが好きだったからこそ、良い 気分転換ができたし、

親父も喜べた、と思います。

 

介護人生になってからの私は

日本では 役所とは介護度、審査の交渉、

施設、ケアマネとは 利用形態、頻度、スケジュール調整など

店と郵便局の仕事をしながら、相当な心労を重ねました。

街中では、車を 町医者に横付けして 胸倉つかまんばかりに

「てめえ! どこ停めてんだ!」

と 身体障害者を補佐してるのに 怒鳴られたことも 数知れず。

 

病院でも、会話相手がいなくて 差額ベッド代も追加され、高額になる個室を避けてましたが

同室に ときどき、ヘンな輩(元、役職に けっこうこういう頑固で命令口調の輩が多い)に

「暗くなってから 見舞いに来るの、迷惑なんだよ!」

と、ナースコールで 私を追い出そうとする、

なんてことも 複数回 ありました。

 

日本では絶対、介護状態になりたくない!!

親父の介護中、その気持ちが増幅するばかりでした。

 

2004年に 車椅子で ハワイ旅行に行きましたが、

このとき、アメリカの先進国ぶり、福祉国家としての国民性に

驚嘆、感激したのです。

ハワイは 田舎町にいっても

ショッピングセンターでも

あらゆる場所で バリアフリー化が進んでいて

しかも ハワイという穏やかな場所、ということもあると思いますが、

そこらの一般庶民も みんな協力的で

親父も私も 感涙にむせぶくらい、助かったし、

「これが本物の 先進国、福祉国家というものなんだ・・・」

と体感したのです。

 

車椅子の人が 一人で生活、行動するにも

ハワイはいい!

特に、日系人が開拓、活躍した ハワイは 日本人にとって、

気候も人間性も、happy な人生を過ごすには、最適でしょう。

 

ただし、アメリカだから 医療費、介護費は メチャクチャ、高いですし、

グリーンカードを取得すれば(これも抽選で当たる必要がある)アメリカの属人制税制に組み込まれ、

アメリカ以外の国に居ても、アメリカ大使館に税申告(確定申告)の義務が発生する・・・・

 

失われた 20年 を経て、日本はすっかり デフレで 内外価格差で 安価な国に落ちぶれてしまい、

1990年頃とは 不動産市況も一変!

もはや、東京の狭小住宅を売却しても、ハワイでは studio タイプの最小サイズの

築 40年以上の 中古コンドミニアムが限界でした。

介護費用まで、とても賄えない・・・・

 

悩んでいたところに、アジアの成長に乗ろう、という 海外不動産投資の話を聞いて

マレーシア、フィリピンが候補に上がったのです。

フィリピンにした理由は

永住権ビザが取りやすかった、というのが最大のポイントでした。

下手な英語でも 話は通じるし、

ハワイにも、フィリピン系の人たちはたくさん居て、

けっこう ハワイの風土にも なじんでいて、印象が良かった、

というのも ポイントでした。

 

葬式後、フィリピンで裁判沙汰になりましたが、

もっとも だからこそ、独身男では 健康にうるさくなりましたが。

滝山病院、事件からわずか1ヶ月強

まさかの 急速復活だったんですね。

https://koujin-kai.jp/

って、「孝仁会」と「好仁会」

名前は滝山病院で同じでも

まったく別か?

 

コメントなど スルーしているが・・・・

事件

https://www.tokyo-np.co.jp/article/240379

https://www.asahi.com/articles/ASR4T2VLTR4TOXIE001.html

https://bunshun.jp/articles/-/61166

神奈川精神医療人権センター

https://kp-jinken.org/2023/02/20/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%82%92%E3%80%8C%E3%83%9D%E3%82%A4%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%80%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E9%97%87%EF%BC%8F%E3%80%8C%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%87%A6%E5%88%86%E5%A0%B4/

コロナ騒動で 尾身茂も

コロナ対応病院の 理事長として

確か、32億だったか?

空病床でも 請求して

税金から コロナ対策費として、せしめてましたね。

失礼!

記憶違いで、もう1桁 多かった・・・

https://dot.asahi.com/dot/2021092400012.html

https://dot.asahi.com/dot/2021083100080.html?page=1

滝山病院、八王子市犬目町だから

父方の祖母が入院してた病院でした。

って、以前、話したかも。

1984年(昭和59年)あたりだったから

親父も まだ元気で、私も 乗り始めたバイクで

よく 中目黒の先まで 見舞いに行ってました。

大学とあわせて、東京をぐるり周遊って感じでした。

伯父が 医療ミスで 身体障害者、寝たきりになって

損害賠償の交渉も しているころでした。

姪夫婦、父、私で 病院サイドと

当時は ICレコーダーでなく、マイクロカセット・レコーダーを胸ポケットに忍ばせて、

交渉したのを、思い出します。

ほんと、医療、介護関係とは

役所も交えて、いろいろありました。

伯父の病院は、自衛隊指定の 世田谷の 三宿病院でした。

今、思えば、国家公務員共済組合でも 「自衛隊の指定先」だったから、

世論、特に政治家、官僚への影響が甚大、と病院側は、判断したもの、

と思われます。

病院から (医療ミスを認め) ずっと医療を提供し続ける

ということで

裁判を回避、和解して、

一生、医療を受けられました。

今 思えば、院長判断と 引継ぎは

割と まともに機能してたのかも。

途中、退院をほのめかされることはあったものの、

外出許可だけで 自宅に1週間とか 滞在しては

再び、三宿病院とか、隣の 自衛隊病院に入院、

病床だけ、時々変わる形で

入院し続けました。

自宅に戻ってくるときが、ヘルパー対応で たいへんでした。

(思い出しました)

確か、このときも

伯父の同級生の地元の喫茶店のマスターが

たまたま 台東区議会議員と懇意だったつながりで

いろいろ動いてくれた、というのが

大きく影響してました。

医療費が無料になっても、

三宿病院は 中目黒からバス

伯父の実家は、浅草の隣、台東区入谷ですから

地下鉄日比谷線の(乗り入れでない本線区間の)

ほぼ北の端から、南の端まで

介護のために通勤してたような感じでした。

通勤定期は、自腹ですから、けっこう出費はありましたね。

(この伯母が、昨年、89歳で他界しました)

このときは、今でも 姪夫婦ともども

最適な判断をした、と思ってます。

結局、人生のラスト 21年くらい

病院の天井を見て晩年をすごしたことになりました。

裁判で勝って、損害賠償で 数百万、千万単位のお金をもらったところで
病院を出されたら、他所の病院で 20年なんか、とても持たず、

とっくにお金が尽きて、次の 入院先が決まらなかったら・・・・

と思うと、恐ろしいです。

そんなこんなで 私は

死ぬことそのもの、理想の死に方はもちろん、即死なら 願ったりかなったり、で

寝たきり、介護状態で 他人の助力が必要になることのほうが

恐ろしいです。

 

病院体験、そして

私自身、腰痛と 超肥満の 2大病気では

国保の病院、西洋医学から サジを投げられました。

腰痛は、まだインターネットが普及する前の マニアックな時で

(1995年 windows 95 が出る前)必死に本屋や図書館で

類書を読みまくって、たまたま見つけた骨盤整体で治し、

職場復帰しました。

 

ダイエットは、とうとう 入院しても リバウンドして

「もはや 日本の医療では あなたの肥満治療は、無理!」

と宣告されましたが

自力で 調べまくり、自分の身体で自ら実験を繰り返して、

45歳で ピークから 45 kg のダイエットに成功しました。(※)

これで すっかり 西洋医学への信頼が、ゆらいでしまいました。

※ 推定 125 kg はあったと思います。

120 kg 体重計の針を 2回、フルスケール振り切り、当時のアナログ体重計は

バネ式だったので、瞬間的に延び切ったバネが 戻らない状態で

体重計、即死しました。

郵政省が 私と 某局長のために、

2回も 100 kg で壊れない、新しい体重計を用意したのですが

2回とも 私が壊したこと・・・・

もう時効ですね。

45歳で 80 kgくらいになったので

45歳で 45 kg  ダイエットで、

その後 55歳で さらに 10kg くらい減って

現在 健康診断結果、成人後で一番、いいくらいです。

お酒は、すっかり弱くなりましたが。

かんぽの宿は バリアフリーの部屋を取って かなり助かりました。

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