自分専用 備忘録

only myself access site

*

3代め 江戸っ子 ~ 旅行 ドライブ バイクツーリング 趣味

   

—————————
大学時代 甲府
社会人になってから、
岩井 & いわき

岩井は、海岸から少し内陸に入るあたり、
ハワイらしくて 気にいっていた。
海岸沿いだと、潮風で建物もクルマも、ボロくなる。手入れが大変だから、
住居は少し内陸に入ったあたりがいい。

ハプナビーチ ••••岩井海岸
ワイメア••••••内陸

あとから、まさかハワイ島移住の加藤賢一さんも、富浦町に別荘
 私の感覚は間違いではなかったと気付いた。

鈴木君が いわきに転職してから、
福島県にしては雪が降らない、
スノータイヤを持たない、
おすすめの街と言われた。
 私も、高速が渋滞しなければ2時間で行けて便利でもあり、
一時期、いわき移住を検討していた。 
が当時は、インターネットが、まだコンピューターを使う会社とかマニアあたりにしか、普及してなかった。

 新品ノートパソコンが、45〜50万円とか、高かった時代。
しかも自分も若かったから、リアル肉体労働しか、働き方がなかった。
 (当時、アメリカは早くも、SOHOという働き方があった!
ハワイでも、Wendell 家を訪ねた時、長男だったか?友人だったか?
パソコンをスイスイ 扱ってる若い男性がいたのは、忘れられない)

岩井も、いわきでも、ハローワークに行ってみたが、当然、東京より賃金が安い。
東京を基準にしてはダメだが、人口からして、求人も少なく、
私にできそうなのは、バス運転手くらいしか、無かった。
また当時は、県立市立学校は、そうそう外部講師を入れなかったし、
私立学校はコネ採用がモノいう世界だった。
教員免許を持ってても、使えなかった。

 いわきのハローワークでは、求人票1枚しか、もらう意味がなかった。
常磐交通、バス会社が、運転代行もやっていた。

父の店もあり、長男の身として、都落ちするには、あまりにも不利だった。

阿武隈山地は、当時、地学的見知からは
「日本で一番、岩盤がしっかりしてる(火山活動が収束してる古い山地が、地震に強い、と言われていた)から、
東南海地震や首都圏直下型地震に備えて、首都移転計画すら、言われていた。

まさか、311で あんな被害を受けるとは。
(首都移転計画を潰すのも、アメリカ様の意向だった? )

1990年に続き、再び、日本脱出意欲が爆増した。

——————
父から引き続きながら、私が田中家の資産として、
自分で守り抜いたのが、現在の 志茂の自宅だ。

 借地権という ややこしい契約だからこそ、
これまで 売却という選択肢がなかった。
が、父が底地権を買わなかったのも、
私には計算してみて、結果オーライだった。

 冨田地主の意固地さと、私の法的根拠対応が ガチ勝負になったが、
まさかの上場会社への売却だった。

 が、これこそ、親父が残してくれた最後のチャンスだ!

 借地権物件とて、上物のメンテナンスは自腹だ。
年金収入になったら、地代の供託以外、サバイバル出来ない。

 更新料を払えば、120万円とか、ドカンと出るタイミングが来てしまう。
経年劣化部分が多発中ゆえ、メンテナンスも 1階のリフォーム代 330万円以上、
かかりそうだ。

 底地権 700 万円、合わせて 1000万円超えの世界だ。

今後のこと、そして現在 巡ってきた 人生最大のチャンス、
と判断。

丸ごと売却 → 現金化 →  地方物件 買い替え移住

 新たな道を進もう。
 おりしも 2024年の グレートリセット前。
下剋上のチャンス到来だ!

私の資産が、借地権物件のみから、

所有権+ 手持ち現金 になる。

———————————-
自分は 最後まで、祖母、父と 面倒を見た。
当時はまだ、介護離職なんて言葉もなく、
周囲が、介護に対する協力をしない、
なんて当たり前レベルだった。
ヤングケアラーなど、言葉どころか?完無視の存在だった。

私は、当たり前の日本人として
「大和魂、侍スピリット」を叩き込まれたし、
最初に就職したのが、たまたま公務員だったから
「公僕としての理念」も、みっちり仕込まれた。

家族として当たり前のことを、当たり前にした、
祖母や父の恩に応えただけだが、
すべてが人生の学びであり、
タイミングとチャンスに繋がり続けている。

 慶應中等部、1次合格 2時で不合格
 地元区立中に行った
 高校は 都立を目指したが 補欠の10番目。
例年、20人くらい、補欠から合格に繰り上がってたのが、
私の年は、補欠繰り上がり0だった。(※)

 私の学区は、41群 小石川、竹早高校。
併願私立は、男子が、巣鴨、城北、
女子が、豊島が岡、桜陰?
 で、巣鴨高校でなく、城北を受験。

私は、たまたま四谷大塚の会場で、巣鴨高校によく出入りしてた時
(恥ずかしながら、受験校と知らなかったし、親もそう認識してなかった)
自分があまり馴染んでるイメージがなかった。

さらには、親父は疎開を思い出すようなのと、
お袋はデブ嫌い、相撲嫌いだったので
「巣鴨高校は、体育の水泳の時は、海パン禁止、褌!」
ということで、ガモ校(当時の俗称) は 受験候補から外され、城北を受けていた。

 あと、城北が 私立男子校の中でも、最強候補だったのが、
入学金 15万円、都内私立校ダントツ最安値!
他の私立は、ほぼ30万円以上だった。

東武東上線の初乗りが、大人70円、国鉄の初乗りが、100円の時代の、
15万と 30万円以上は、確かにデカい差だ。

中学、高校と、第一志望校 不合格!

しかしここで、城北に行ったことが、
今、思えば、人生最大級の分岐点だった。

 父が「井の中の蛙、大海を知らず」では 人間、ダメになる。
せっかく、ハワイプログラムがあるなら、ハワイ、行ってきなよ!」
と、思いもよらない展開になった。

親父のおかげで、カワノさんとご縁ができた。

 ハワイで ホームステイ先を選んだ時のことも
未だに 忘れられない。

 HPA の掲示板に ホームステイ受け入れファミリーのリストがあり、
希望するステイ先ファミリーのところに、
自分の名前を書くのだが、
もちろん どんなファミリーなのか? わからない。
 高校側としても、受け入れてくれるファミリーがいるだけで、ありがたいし、
歓迎だっただろう。

 完全に、あみだくじの世界、
ちょっと迷ってたら、もう だいたい埋まってて、
私は「残りものには福がある」
みたいな感じで、空欄に自分の名前を書いた。
そのファミリーが、カワノさんだった。

 たいへんお世話になったので、
私もきちんとお礼の手紙やら、イベントの時期は、プレゼントを送ったし、
Millie さんが まさに昔の 勤勉実直で、マメな日系人だったのも、
42年以上の付き合いに繋がっている。

カワノさんへのお礼、手紙の件では、お袋にも感謝だ。
父は 本をほとんど読まなかったし、手紙を書く、なんてしない人だったから、
父の年賀状も、仕入れに同行してて、顔見知りになっていた 
長男の私が 買いていたくらいだ。

 国際電話が ちょっとかければ、3000円もの高額請求が来た時代、
手紙をマメに書いて、ご縁が継続できたのは、
うるさいお袋のおかげだったかも。

※ 1980年は、電車の初乗りが、100円になった頃。
考えてみれば、1972年頃、20円?30円くらいだった。
子ども50円の回数券が、東十条駅で買うと「東十条〜秋葉原」と印刷されていた。

1980年は 100円になっていた。
この頃、赤字続きの国鉄が 連続値上げして、私鉄より高くなった。

東武東上線の初乗りが、ときわ台まで70円(池袋 始発)
高校は、1駅先の上板橋だったから、悔しくも90円だった。

ときわ台からだと、20分以上歩くから、
肥満児には辛くて、
みんなと一緒に、上板橋を利用していた。

 結局、1〜2か月で、赤羽線のラッシュの凄まじさと、
池袋乗り換えでも、ホームに落ちないように 神経を使い、
さらに上板橋駅でも、最寄の駅なのに 歩けば10分(十分)
と、片道1時間もかかる。
心身共に辛すぎて、自転車通学にした。

高校、大学と、電車が時間かかって費用も高くて疲れる、
という実体験で、バイクにも目覚めてしまった。

 通勤時間がもったいない、人生の無駄遣いだ、
と痛感して、社会人になる時は
「大学みたいに代返も効かない、それで電車通勤なんて、死ぬほど嫌だ」
と、給料、待遇に絶対見合わない、と悟って、
働くなら絶対、近場!にこだわった。

※ この3年後は、鉄道界で衝撃!
国鉄始まって以来の、高卒採用ゼロ。
東京の鉄道系高校(岩倉、昭和鉄道&豊島実業高校が、鉄道関係者の育成高校) の卒業生が、
私鉄、営団地下鉄(現、東京地下鉄、帝都高速度交通営団の略称)

国家は 産業なくして成立せず
産業は、教育なくして成立しない!
(そういえば、私の幼稚園は、名前そのものが、成立幼稚園だった!)

 - 00 備忘録, 未分類, 自伝