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2020年 不動産へのこだわりを捨て、再び PT & 移住 自由人生へ !

   

1990年の元旦 30年前の朝刊の「1990年代を迎えて」の 特集記事は
私にとって、一生、忘れられないものとなった。

当時、バブル末期の世相だったが、私は、公務員として 郵便局で働きながら、
東京下町の 親父の個人商店を 「生活費を入れられない代わりに 手伝っていた」ので
世間のバブルの恩恵は まったくといっていいほど、感じられなかった。

 ただただ、初級公務員の中でも 安さで有名だった、郵便局員としての給料をもらい、狭い家に 家族が身を寄せて生きていた窮屈さばかりが 日々、感じていたのだ。
まさに 「先進国の豊かさって、庶民には関係ないのか?」
という 得体の知れない反発心ばかりが、うずまいていた。

 そのときに、目にしたのが 元旦の新聞だった。
その記事は
「戸田市の自宅を売って オーストラリアに移住。豪邸が買えた上に
仕事は半日で 悠々と生活している」というファミリーの 移住生活ルポだった。

戸田から都心に 毎日、満員電車で通勤し、会社は 残業が当たり前。
さらには、休日も 接待ゴルフだから、人生の拘束時間が 長すぎて疲れてしまう。
こんな生活を 60歳定年まで続けられるのか?
続けられたとしても、老後が不安だ・・・・

社会人3年目に そろそろ入る時期だった私には、衝撃的だった。
私の痛感している、言葉にならない不安、将来に希望が持てない原因が、
この記事を見ながら はっきりした。
 仕事で 長時間、拘束され、狭い家に住みながら、少ない収入で我慢し続けていた。
そのことに 自分で気づいたのだ。
 
東京北区から 荒川を渡ると、埼京線で3駅めから 戸田市になる。
親父の店は、東十条にあったが、川口とか戸田は 川向こうのドライブコース
みたいな身近な場所だ。

 当時、海外は 高校のサマースクールで行ったハワイと
大学卒業旅行で行った、EU になる前の西ヨーロッパだった。
 南半球の、オーストラリア、ニュージーランドが 気になる国々になったのは、
このときからだった。

 そういえば、親父の店で 売っていた インコ類、毎日、エサ、水、掃除をしていた
鮮やかな ゴシキセイガイなどの鳥は、原産地、オーストラリアだった。

 オーストラリアに行ったら、もしや、日本の 浅草寺のドバトのように、
公園に 当たり前に セキセイインコとか、飛んでいるのかもしれない・・・
親父の店、商品を変えないと やってけないかな?
 
 などと、考えてしまった。

しかし、親父も私も、日々の生活に追われていた。
とても 移住の話は、聞き入れられなかった。

親父にとっては、海外どころか、日本だって、あちこち旅行できてなかったから、
「日本国内も 知らないのに、海外移住なんて、とんでもない!」
という感覚だった。

 兄弟は 4人と多くても、店を手伝うのは、私だけだった。
すでに 家族も、戸籍と 妹たちの学費の金づるだけの、冷え切った関係でしか、なかった。

 当時は まだ Windows 95 が出る前で パソコンは でかくて高価なシロモノだったので、一般庶民は、一部の人々が、会社で画面に向かっていた。
アメリカで SOHO (Small Office & Home office)という働き方が 試験的に開始してまもなく、という感じだったので、健康不安を抱えた、単なる一貧民労働者であった私には、
自宅を離れたら、どう収入を得ればいいのか?
 わからなかった、というのが、踏み出せなかった言い訳である。

移住している人々の職業を見ると、
それぞれ 自分の事務所を構えている 自営業だったので、
私にとっての 親父の店の延長線上には、思考回路自体が、回らなかった、
とも、今なら いえる。

 
 また 親父も 当時から 糖尿病の薬を飲みながら、働いていた。
医者から 入院を勧められたそうだが
「店はどうなる? 俺が働かなければ、一家心中になる」
と、医者を退けていた。
 とにかく、一番下の妹が 就職するまでは、親父も無理を続けるしか、なかった。
私も、海外移住の話は しばらく 頭と心にしまっておくしか、なかった。

( 2000/1/25 親父 脳梗塞で倒れた)

介護保険の活用も、けっこうたいへんだった。

郵便局が、典型的な、お役人根性、思考回路の組織だったので、
今思えば、そんな職場で うまく立ち回った経験が 
役所との交渉の際、役にたった。

 役人の対応、言動から、心理が読めてくるので、
言い方、話の持っていき方で ある程度は 介護保険という制度を
親父のために活用できた、とは思う。

 それでも 法律とか制度は、役人が 机上の空論といっても過言ではない作られ方だから、融通がきかないし、保身とノルマばかりの役人どもとの交渉は、
ほとほと手を焼いた。

 家族の介護で悩む人々にとって、介護保険の担当役人との交渉も、さらなる悩みの種だ。

東京都北区は 介護認定が 日本一、厳しい自治体として 事情通には有名だった。
全国的には、介護認定調査の用紙は 2種類なのだが、
東京都北区だけ、さらにもう1枚、認定調査員が 日常の動き、状態を さらにチェックする試験用紙があった。
俗に 「北区方式」という、介護認定者を いかに落とすか?
落とすための試験、みたいな 方式だった。

介護保険の予算をあまらせている、という意味で、国家が北区に 右へ倣え、
とならないことを、願っていた、というのが、私の本音だった。

 とりあえず、自宅をリフォームして 親父が 自力で トイレにいけるよう、
バリアフリー化したが、2度目の脳梗塞で ついに 自力歩行が不可能になってしまった。

 自宅で介護ができなくなると、一気に困る。
 公立の老人ホームは 数百人 待ち。
私立の老人ホームは 新築一戸建よりも、高額だったので、
ご他聞にもれず、体調悪化で経過観察が必要なときは、病院に入院し、
病院を追い出されると、老健に数ヶ月、いる。
 自宅でトイレに行けない、次に悪化したら 家族での対応はできなかったので、
親父は 病院と老健の渡り鳥みたいな人生になってしまっていた。

 自宅にいるときと違い、介護度による負担軽減はあるものの、
毎月 10万円以上が、出ていくようになった。
マイホームなのに、家賃を余分に負担している状況、といえば、わかりやすいだろう。

 阪神淡路大震災で 30年、35年ローンを組んで、マンションを買った人々は、
マンションが傾いたり、崩壊してしまっても、ローンだけは残って、
住まいは新たに 買うなり、借りるなり、しなければならない、という
たいへんな苦労を背負ってしまったそうだ。

 私も 一生懸命、親父の店を手伝い、収入が足りないので 外で働き(といっても、就職できたところが、限られてしまったのだが)、まさに 働きづめと介護で
必死だった。

 そんな中、たまたま 海外投資の会を知ることとなり、
「フィリピンなら 月に 日本のお金で 2~3万円も払えば、お手伝いさんを雇える」
と聞いて
 フィリピンに 介護移住しよう!
と考え、実行に移した。

 私は、生まれてこの方、ほぼ東京に住んでいた。
2歳くらいまでは、埼玉県与野市(現 さいたま市)にいたこともあった、
と親からは聞いていたが、自分の記憶には、おぼろげ程度しか、ない。

 また、郵便局員になると、国立市にある 郵政研修所に 幾度となく入る。
一度、半年の 中堅職員の研修に行くことになり、住民票が 北区から 国立市に移動したことはあったが、それ以外、自分の記憶にあるのは、東京都北区だけだ。

なので、移住というと、まったくの新天地開拓、という感覚だった。

小中学校のころは、親の職場異動などで、よく 転校していた同級生がいたが
彼らは 移住に慣れていたのだと思う。

私は、その点、土着民みたいな人生だったので、移住に関しては ゼロベースだ。
 
 関西、九州、あるいは、北海道、沖縄に移住するのも、
海外に移住するのも、
方言か? 英語か?
の違いだけ、という感覚だった。

日本国内だって、しきたり、文化の違い、地域社会の人間関係は
「よそもの」「身内」みたいに、いろいろ面倒で、慣れるまでがたいへんだし、
慣れることができず、結局、元に戻ったり、また別の場所に移住したり、
かなり大変で、人生のエネルギーを使う。
 
人間関係で 精神的に疲れるエネルギーを考えると、
海外移住という選択は、大いにあり、だった。

 そんな思考が 頭によぎっていたときに、東日本大震災が起きた。

一気に日本は、閉塞感のある、重苦しい時代になった。
戦争を知らない子供たち世代の 私にも
「戦時中の 戒厳令下の日本って、こんな雰囲気、風潮だったんだろうな?」
と 歴史の知識としてしか、知らなかった 空気が、体感できた。

 親の介護となれば、90日の観光ビザでは、安心して滞在できない。
さりとて、永住権ビザは、デポジット(預託金)やら 毎月の定期収入やら
さまざまなハードルが高いし、以前、移住を考えた オーストラリア、ニュージーランドは 永住権ビザの発行すら、当分、停止したままか? 移住者数調整枠が空かない、
という状況。
 しかも、年齢 55歳とか、60歳以上、という制限のある国が 大半だ。

 本音は、実際に何度も行って、気候の良さ、居心地の良さで、
ハワイが最善、住みたかったのだが、アメリカだから、
医療、介護も、日本の比ではなく、高い。
永住権(グリーンカード)取得も厳しい上に、グリーンカードを取れば、
属人制税制下に入ることになる。

属人制ゆえ、当時から アメリカ国籍者(グリーンカードを取得した人を含む)
は、海外の銀行や証券会社の口座は 開設させない、保有者も解約させる、という締め出しすら、始まった。

 かくして、ハワイで親父を介護、という人生は、夢物語と消えてしまった。

 自分の年齢、50歳前で、永住権や、長期滞在ビザが取れる国、となると、
マレーシアの MM2H ビザ(10年有効、更新で延長可) か?
フィリピンの SRRV に 絞られた。

実際に、お手伝いさんを雇いながら 自宅で介護しつつ、通院する、という方法での移住になる。

40代という年齢は、変えようのない現実だったので
マレーシアの デポジットは 年齢制限で 50代の 2倍が必要。

フィリピンは 35歳以上から 永住権取得の対象者になれて、
50歳以上になれば、2万米ドルまで 下がる。

となると、私の用意できる金額、移住後も 介護生活を維持できそうなのは、
フィリピン1択だった。

フィリピンに介護移住しよう!

タイミングよく、フィリピン永住権、SRRV の制度変更が決まった。
35~49歳でも デポジット 2万米ドルで 取得できる、スマートプログラムという

ようになった。

マレーシアには、行ってみたことが なかった。

マレーシアは 日本やアメリカ同様、外国人でも
土地ごと、自分の所有権にできる、数少ない国だ。

フィリピンをはじめ、ほとんどの国は、自国民か、その国の法人名義でしか、
土地の所有者にはなれない。

 よく、フィリピンやタイで 日本人の夫が、現地人の妻と 離婚すると
同時に、家を取られてしまう、
というトラブルを聞くのは、
土地の所有者になれない、奥さん名義でしか、家を持てないのが原因だ。

フィリピンに限らず、外国人が土地を買えない国でも、
コンドミニアム(日本でいう マンション)なら 土地は現地の会社名義のまま
外国人でも購入できる。

  となれば、永住権や お手伝いさん雇用を考えて、フィリピンを選んだが、
買うなら マンション(コンドミニアム)
一戸建は賃貸、という選択肢になる。

賃貸は、隣近所が合わなかったり、洪水や地震の被災者になってしまった場合、
引っ越しができるのは 大きなメリットだが、
私は マンションとか、高層住宅を買う、というのは、正直、抵抗がある。

フィリピンも、日本同様、環太平洋火山帯に属する島国だが、
マニラや近郊は 地震の心配は、あまりないそうだ。
とはいえ、日本ですでに、阪神淡路大震災、東日本大震災に遭遇した身としては、
建物のみ、何百万もの金額を出したり、ローンを組んで
空間という所有権を買う気には、なれなかった。

マンション、アパートは、買うのではなく、借りるのが正解、と私は、
痛感してたが、借りるとなれば 土地所有者との関係は ついて回る。
さすがに 介護となれば、
そうそう 大家の都合で左右されるのは、困る。

基本、海外は 日本人よりも 気分とか 感情とか、
いい加減、あいまいな部分が多いし、
律儀な日本人は、なじめない点でもある。

私は そのあたりは、適当で 寛容度が高い人間だが、
自国民大家と、永住権を持ってたとしても、外国人である自分が借主、
という 関係は、不安なのは、確かだ。

 いろいろ考え、悩んでいた時、たまたま、友人の齊藤さんから 
マキソンという会社が フィリピンで一戸建に住めるプランがある、
と聞いて、説明会に参加。
 すでに 先行者が 購入済で あと 3軒しか残っていなかったので、
早々に、次の開催の 現地視察ツアーに申し込んだ。

 親父も、私以上に、一軒家に慣れているし、
私が子供のころの、景気のよい時代に、さっさと一戸建の家を買った人間だ。

 一戸建に住む、という選択肢が 目の前にあったし、
親父の健康状態、介護の必要度を考え、
現地での環境をチェック、
「今、買うしか、ない」
と判断して、購入した。

 しかし、土地所有者であり、ビレッジの管理会社 マキソン本社が
まさか、あっさり破綻するとは、あまりにも早過ぎた。

 親父をフィリピンに連れて行こう、という段になって、
親父は体調悪化し、ついに他界。
その後、ほんの数ヶ月のことだった。

後から思えば、親父を連れて行ってたら、
新しい環境になれるまもなく、破綻騒動で 
また 違う場所に引っ越すなり、日本に出戻るしか、
なかった。

 親父が亡くなって ものすごく悲しく、ショックだったが、
冷静さを取り戻してから
「人間、いつか死ぬし、親子の順番としては、親父を見送れて よかった。
しかも、所有会社、管理会社の破綻トラブルに、親父を巻き込まないで済んだのは、
不幸中の幸いだった。下手すれば、親子共倒れになってしまうところだった。」
と ホッとした。

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 2011/3/11   東日本大震災は、直接の被災は免れたが、
     放射能汚染は 見てみぬフリ
     震災直後から ガソリン、灯油は、長蛇の列でないと入手できず、
     スーパーの棚から 食糧が消えた!!

 2018年    人生初! 自宅で 荒川の警戒水位警報を聞いた
     おりしも、広島では 水害の被災
     赤坂自民亭  政府の救済が遅れ、被害拡大
    増税ばかりの やらずボッタクリ国家であることが 露呈

 2019年    台風15号は 関東直撃でなかったが、
     続く 19号で またもや 荒川 警戒水位警報が出た。
     千葉は マスコミが取り上げない間に、たいへんな被災地と化していた。

自宅の2階が、雨漏りして 少し にじんでいた。
これは 数日で乾いたが・・・

  

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